SION & THE MOGAMISION-YAON 2006” 2006年08月12日(土) 日比谷野外大音楽堂

毎年恒例、SION野音ライヴ。目下、自分は4年連続の参加である。ここ数年ずっとそうなんだけれども、SION野音ライヴの日はどうにもお天道様がご機嫌ナナメらしく、雨の香りがする天気にもかかわらず、なぜかライヴ本番では降らないというジンクスが存在する。そのジンクスは見事、今年も破られることなく、昼過ぎ、会場近所の川崎市で大雨洪水警報が発令されたにもかかわらず、見事にライヴ一時間前にはやんで、涼しい夕暮れの中、ライヴが行われた。

SION野音ライヴで凄いのが、80年代、まだ日本のロックがギリギリ(良くも悪くも)純粋無垢にロックしていた時代のコンサートのノリがそっくりそのまま継続していることである。一応、座席は指定席なのだが、前で観たい連中は柵を乗り越えて最前ブロックの椅子の上に立ったり通路でモッシュしたりしている。逆に再後方のゾーンでは酒盛りをやっている連中がいる。まあ、イマドキの若い柔和なロック兄ちゃんからすれば、プチ無法地帯といった趣であろう。しかし、殺伐とした雰囲気は全く無くて、マナーの悪さだって許容されるような、ゆるやかな感じなのだ。

ただ、今年はちょっと雰囲気にちょっとした変化が起きていたことだけ、記録がてら書いておこう。上記のような雰囲気について、客席はまあいつも通りの感じだったのだが、主催者サイドが例年に比べて少しばかり神経質になっていた感じがするのである。

例年、客席AブロックとBブロックを仕切る柵は、よくあるプラスチック製・折りたたみ式の製品で、「どうぞ強行突破してください!」と言わんばかりの頼りないモノであったのだが、今年は強固な鉄柵、しかも、足を引っ掛けて飛び越えることができないようタテにだけ筋の入った柵が使用されていた。そして、開演前、警備スタッフがメガホンで叫びまわっていた言葉をそのまま引用すると、「お席を離れてステージに駆け寄るなどの行為は大変危険です!会場からの指摘があり次第、即コンサートを中断いたします!」。

当然、これくらいの事は毎回アナウンスしているが、それは儀式的・免責のための言い訳程度のもの。しかるに、今回は「会場からの指摘があり次第」という、象徴的な言葉が付加されていたのである。その他、いつもは実質フリーなタバコも今回に限り「客席内は禁煙です!」と喫煙している人間に直接注意を促すなど、非常にピリピリしているのだ。

主催イベンターは例年と同じくホットスタッフ・プロモーションなので、イベンターが変わったから厳しくなった、とかではないはず。ひょっとすると、日比谷野音の管理事務所から運営について何らかの指示があったのではあるまいか。実際、日比谷野音では、1987年、LAUGHIN' NOSEのライヴで不幸な事故が起こっている。その事故はファンが席を離れてステージに駆け寄ったのが原因である。この80年代チックなノリに会場側の責任者は各種ホールやライヴハウス以上にナーバスになっていて当然である。

SIONWebSite「うりきち」に「SHITSUMON NADONI」というコンテンツがある。そこで「野音楽しみにしています」というファンからのメッセージにSIONはこんな返答をしている。「で野音、今年は無理かと思ってたんだけど、ホットの男石川の頑張りと男気で、とれました。8月にやりまっせ!」

このメッセージでは詳しいことは判らない。日比谷野音を使用するための抽選に外れそうだったのを、ギリギリ確保した、という意味にも取れる。でも、やはり「SIONの客は危険行為を平気でするから貸せない」という会場側の通知を、ホットスタッフ石川氏が警備計画等を緻密に練って、分厚く細かい計画書を作成、頭の固い役人である管理事務所と交渉して、やっと正式にブッキングできた・・・とも解釈できるのではなかろうか。

では、この空気を受けて観客はどうだったのか。さすがはSIONのリスナー、空気の違いを感じ取ったのだろうか。下手サイド側では客席中ほどの通路に少しでも前で観たい客が席を離れて人口密度高めに溜まっている程度で、危険・無茶な行為はあまり見当たらなかった。上手サイドでは本編後半あたりで若干、最前ブロックの柵を強行突破していた連中がいたものの、警備スタッフが体を張ったタックルで阻止するなどして、完全にではないものの止めていたのは目撃した。

別に俺は「ステージ前へ突撃するな!」とは言わない。お仕着せのマニュアル化されたルールなんてうっとうしいだけだ。この決まりの本質は「危険」「迷惑」ということなのだから、元々その席にいた人を押しのけて椅子の上に立ち上がったりしない、女性のまわりにはスペースをあける、間違ってもダイブはするな、等、本質的に守るべきことを守っている限りはやっても良いと思っている。

ただ、その、いわゆる世間一般のコンサートのマナーを破ることに変わりはないわけだから、確信犯的に行動するべきである。「盛り上がって我慢できなくなった」「周りの連中がやっているから」なんてのは思考停止の阿房がやることであって、“アーティスト”“アーティスト事務所”“イベンター(社員)”“イベンター(バイト)”“会場運営者”“客”“自己”その場に関係するアクターそれぞれの「立場」なり「事情」なりを察して、理解した上で、自己の責任の下にルール破りをして、コンサートを最大限に楽しみたいものである。


話が脱線してしまった。本題に戻ろう。

今回のSION & THE MOGAMI、正味な話、バンドのコンディション的には過去最悪の部類であったのは間違いない。SIONは腕の骨折?捻挫?でギプスをはめていて、Bassの井上富雄氏はなんとツアー2日前に急病で出演キャンセルという非常事態である。これがもし、SIONとそのバックバンドではなく、ザ・○×ズ的なヴォーカルと各パートが一体となったロックバンドという形態であれば、ツアーを中止にしてしまっても不思議ではない苦境である。

だが、SIONには中止にするという選択肢はあり得なかったのではないだろうか。そして、我々オーディエンスも、かのような不慮の事故とはいえ、生半可な演奏を提示されたら絶対に黙ってはいなかっただろう。
それは、SIONというシンガーが表現する大きなテーマの一つが“逆境・現実との闘い”であるからである。

そのテーマは、ちょっと情けない男と女の生活としてSIONの詩世界に描き出されているのは自明の理であろう。その「男と女」はさまざまな立場・シチュエーションで詩世界を縦横無尽に動き回り、喜怒哀楽に振り切れそうになりながら、希望を掴み取るべく孤軍奮闘している。そんな世界に我々リスナーは自分を重ね合わせて、詩の主人公と共に喜ぶ、怒る、哀しむ、笑うなどしているのだ。

そこで、もし、今回のツアーにおいて、SIONが「今回は演奏できる状態じゃありません、ごめんね」なんて言ったらどうなるか。「井上がいないから、松田文とのアコースティック・ユニットをベースに、アンプラグド・スタイルでそれらしくやってみます」なんてなったらどうか。ハッキリ言って、「逆境に敗北しました」と宣言しているようなものである。それはつまるところ、SIONの詩世界が「夢のある虚構」から「ただのウソ」になってしまうのである。

「逆境への敗北」。これはすなわち、SIONの詩世界の主人公を殺してしまうようなものだ。詩世界の創造主であるところのSIONが「逆境を克服できませんでした」となると、詩世界中で希望を掴み取るべく孤軍奮闘していた詩の主人公達の立場はどうなるであろうか。信憑性が無くなる、リアリティが感じられなくなるに決まっている。そして、我々オーディエンス達はSIONの詩世界に全く共感できず、ライヴという非日常であるはずの祝祭空間においてすら終わりなき日常を引きずり、夢の残骸を左の耳から右の耳へ送り出す苦痛の時を過ごさなければならないのだ。


では、実際の演奏はどうだったのか。その答えは・・・わざわざ、長々と書く必要はないだろう。本当の意味での逆境を乗り越えていくその姿を、生でオーディエンスに示したのである。だからこそSIONが唄う詩世界がよりいっそうリアルで強固なイメージとなり、自分自身もその世界へ飛び込んで、主人公達と一緒に希望を掴み取ることができたような気がした。2度目のアンコール、福山雅治との共作として発表した“たまには自分を褒めてやろう”を演奏。“♪たまには 自分を ちゃんと褒めてやろう・・・”。突然の試練を最良のカタチで乗り越えたSION & THE MOGAMIのリアルで根拠のある自己肯定。もう、出来すぎである。
しかし、ライヴという空間はあくまで非日常のもの。非日常には終わりがやってくる。前述の“たまには自分を褒めてやろう”に引き続き演奏されたラスト・ナンバーは“このままが”。“♪このままが、何よりも、このままが・・・”多幸感に包まれたの気持ちのままでいれたら、どんなに素敵だろう。

そんなバンドとオーディエンスの願いを囁くように歌った後、「ありがとう・・・」と呟いてバンドはステージを去った。終了のアナウンスとともに客席に流れるBGMはJimmy Cliffの“The Harder They Come”。夢の非日常から悶々とする日常へのゆるやかなスイッチングの曲としてこれほどまでに適合した曲もあるまい。きっと、選曲をした人も何かしらのメッセージというか、イメージをこの曲に託しているであろう。会場はさらなるアンコールを求める拍手が続いていたが、何となく、これ以上何か演奏なりMCが入るとラスト2曲+客出しBGMで感じ取った意味を壊されてしまいそうな気がしたので、僕はゆっくりと会場を後にしたのであった。