北野誠氏が“不適切発言”で無期限謹慎処分。事実上の芸能界追放となる。記者会見の場においても「具体的に何を言ったか」は説明せず、ただ「問題発言の積み重ね」である旨を強調するのみ。インターネットで噂になっている団体についての発言ではない旨も明言。ただひたすらに謝罪するのみの異様な会見であったとのこと。

私はこの“不適切発言”の原因となったラジオ番組“誠のサイキック青年団”のヘビー・リスナーだった。中学生・高校生の時分は毎週欠かさず聴いていたし、大学以降は少し離れたものの、番組の有料ネット配信がスタートして以降は再び聴くようになった。飛び飛びではあるが、おおよそ10年にわたって聴き続けたことになる。

そんなファンからすると、今回の騒動は東京の芸能マスコミがピントのズレたところで傍観者的に書き立てているように思えてならない。誠さんが事実無根のヒドイ話をしていたのは事実であるのだけれど、作為的にニュアンスを捻じ曲げられているような感じすらしてしまう。じゃあ、その“ニュアンス”って一体どういう事だ!?というハナシである。私の主観ベースではあるが、誤解を恐れずに記録を兼ねて明らかにしておきたい。

まず明らかにしておきたいのは、今回の騒動において誠さんだけが悪者のように扱われているが、実際はそうでもないという点である。(そもそも、本当に“悪者”であったのか?という議論は別に行うべきであるが・・・)“誠のサイキック青年団”という北野誠氏の名前を冠した番組名であるが、別に誠さんが1人で喋る番組ではない。作家の竹内義和氏・朝日放送のディレクター板井昭浩氏をはじめ、独特な感性を持った番組スタッフ、浅草キッド大川興業一派ら多種多様なゲストと一緒に“トークのプロレス”をする番組であった。むしろ、荒唐無稽でバカバカしい事を喋っていたのは竹内義和氏のほうである。我々ヘビー・リスナーは竹内氏のことを“アニキ”と呼んで慕っていたのだが、アニキが暴走した際、誠さんはしっかりツッコミに回り、きちんとギャグのネタとして成立するよう立ち回っていたのである。また、それに輪をかけて高いテンションと強力なエネルギーを持っていたリスナーの存在も見逃せない。番組のキモとも言える“妄想”“邪推”“キメウチ”を駆使し、ヘタをすると電波とも捉えられかねないオピニオンを番組にぶつけ、“トークのプロレス”をより白熱したものに昇華していたのである。番組の面白さは、誠さん・竹内さんのトークと同じくらい彼らリスナーのエネルギーが源泉であったことは間違いない。

また、誠さん・竹内さんは事実無根のヒドイ話をしていたが、話題となった人物・事象に対して、“上から目線”で話をしたことは無かった。モノゴトをうがって、ナナメから見て、ヒネって、カブセて喋ってはいたけれど、見下しはしていなかったはずだ。誠さん・竹内さんは芸能人・文化人として、批評対象と同じフラットな立場から喋っていた。そしてむしろ、揶揄するのは権威者・強者に限られていた。例えば、番組で“御大”と呼ばれている人物が居る。その“御大”は見紛うことなき“ヅラ”な方である。誰もが知っているにも関わらず本人は沈黙し続けるという鬘愛用者の象徴として、20年間何かとネタにされていた。“御大”は誠さんと近しい立場の人であるからして、番組でネタにし続けた事も当然知っているはずだ。しかし、その“御大”はそれに対して抗議だとかみっともない事は全くしていない。むしろ、“トークのプロレス”という番組の方針を正しく理解して見守ってくれていたのではないか。少なくとも決定的に悪くは思っていないはずだ。事実、“御大”自身の作曲した楽曲の著作権を、形見分けで誠さんに譲ろうとすらしたのである。もし、誠さんが“御大”を見下していたのであれば、このような信頼関係は築けていないはずである。

そして、各種報道ではサイキック青年団がいわゆる“無法地帯関西芸能マスコミ”の最右翼として捉えられているが、そうではなかったと私は思う。でも、昼の関西ローカルワイドショーで芸能レポーターが言いたい放題言っていたのとは決定的に違う所がある。“芸能レポーター達は他人の人生を売り、誠さんはトークのプロレスを売っていた”ということである。確かに、誠さん自身も“関西ローカル”“日曜深夜”といった点から、関東芸能界への影響は無いと思っていたのは事実であろう。この点に関しては芸能レポーターとそう大差無いかもしれない。だが、芸能レポーター達は芸能界の噂話を(贔屓目に見て)“ジャーナリズム”あるいは“スキャンダリズム”として批評対象の一段高いところからあることないこと喋っていたのに対し、誠さん・竹内さんは“何らかの情報ソースに対する批評”を面白おかしく、荒唐無稽に行っていたのである(これがつまり、“トークのプロレス”たる所以である)。時には真剣に、芸能人の尤もらしい噂話に対して「それはありえない」と検証することもあったし、噂を拡大解釈して「・・・だったら、もっとオモシロイのに」というバカげた妄想で話を膨らませたり、ただただバカバカしいシモネタの語呂合わせキャッチフレーズで噂を切って捨てることもあった。つまり、“芸能界の噂を喋った”なんていうのは番組の本質とは全く別の話である。もっと言えば、その噂が真実だろうとそうでなかろうと、別にどうだってよかったのだ。我々リスナーが望んで面白がっていたのは、噂から導き出された、誠さん・竹内さん・リスナーのアホ話だったのだから。東京スポーツ大阪スポーツの記事をジャーナリズムとして捉えている人が皆無なのと同じである。東スポの楽しみ方・・・即ち、見出しにまず驚き、本文を読んだらば、情報の意識的曲解・破茶滅茶な結論に手を打つ。あのエンタメ構造と同一なのである。

私の感じる“違和感”“ニュアンス”を言葉にするならば、上記3点につきる。しかし、どんなにそれを声高に叫んだところで多勢に無勢だ。私の大好きだったサイキック青年団が復活することはないだろう。それ以前に、誠さんの社会的抹殺状態からカムバックすら危うい雰囲気である。

では、どうすれば我々ファンは誠さんを再び表舞台へ復帰させることができるのだろうか?私が他人の人生についてどうこう言う権利なんか全く無いのは重々承知の上で、私はあえて言いたい。“誠さんは独立して、活躍のフィールドを活字媒体に移すべきだ!”。

結局のところ、今回の事件で誠さんが一人で罪(ではないと声高に言いたいが・・・)をかぶったのは、ひとえに誠さんの活動フィールドが放送媒体であったことと、芸能事務所に所属して組織の枠組み内で活動していたためであろう。放送という許認可制免許事業では“ジャーナリズムとして、公平中立な事実のみを提供する”とかいう美辞麗句の下、“臭い物には蓋”の精神で葬り去ってしまったほうが何かと都合は良いだろう。また、個人の利益は集団に還元されるとは限らず、集団の利益は集団全体に還元される。組織の利益と個人の利益が相反した瞬間、組織に所属する個人は選択をせざるを得ない。組織として活動するからには、このテーゼは絶対的なものである。この2点が複合的に誠さんただ一人を追い詰めたのである。そのあたりを軸に誠さん復活の絵をファンの立場から描いてみたい。

そもそも、誠さん・竹内さんの2人によるプロジェクトを継続するとすれば、媒体をラジオとする必然性ってあるのだろうか?私はむしろ、活字メディアのほうが誠さん・竹内さんのやりたい事を実現しやすいのでは?と考える。“サイキック青年団”の看板をおおっぴらに使用するのを止めて以降、彼らのイベントやDVDのタイトルには“濃い口トーク”という名称が冠されている。「名は体を表す」の言葉通り、はっきり言って情報の受け手を選ぶ内容である。確かにテレビメディアよりはラジオメディアのほうがリスナーの“聴く”“投稿する”といった能動的行動を伴うので適合度は高いだろう。しかし、前述の通りテレビもラジオも許認可制免許事業であることに変わりはない。放送事業免許をタテに取られたら、悪名高き自主規制もなんのその、である。また、ABCのようにテレビ・ラジオが同一放送局である場合が多い。そんな場合、ラジオで何か問題が発生してテレビを人質に取られたならばラジオは折れるしかない。そう考えると、結局、電波媒体で受け手を選ぶことは事実上不可能ではないか?と思うのだ。翻って、活字メディアの特性を考えてみよう。出版社と放送局を比較すると、リスクを引き受けてでも対象を明確にした面白いコンテンツを生み出す気概・ノウハウを持っているのは明らかに出版社だ。(放送局など、公共事業・ゼネコン批判を声高にしているくせに自身は完全なる談合横並び体質である・・・)そして何よりも活字メディアは原稿用紙とペンがあれば作品を書くことができ、それが面白ければ買い手がついて出版される。面白くなければ没となる。そのワーク・サイクルで関連する人間の数は放送・舞台メディアなんかよりずっと少ない。また、何よりも許認可制免許事業ではないから、ずっと裾野が広く、独立独歩で行動できるだけの懐の広さがある。実にシンプルでわかりやすいビジネスモデルではないか!

また、誠さんが無期限謹慎という形で責任を取った形になったが、これは本当に誠さん自身を含めた関係者全員が幸せになれる責任の取り方なのだろうか?表向き松竹芸能を懲戒解雇・誠さんは個人で独立するというシナリオもあり得たのでは?と考える。誠さんが無期限謹慎を受け入れたのは、組織人として責任を一身に引き受けることにより、松竹芸能という会社全体に対する不信をかわすためであろう。確かにこれで松竹芸能という組織は信頼を取り戻すことができた。しかし、誠さんはどうなのだろう?“謹慎”即ち、飼い殺し状態のまま収入がストップするわけである。はっきり言って、“解雇”より厳しい措置である。“解雇”であれば後は自由の身になるわけで、個人で自由に営業活動ができるのだから。吉本興業が不祥事を起こした芸人を“解雇”をもって処分したように、松竹芸能も誠さんを解雇することで責任を取ることはできなかったのだろうか?ここからは私の完全なる“邪推”なのだが・・・3月中頃、誠さんは独立の道を検討していたのではないだろうか。サイキック青年団が3月で終了することが発表された回の放送で、誠さんは思い出の1曲としてARBの“魂こがして”をかけた。この“魂こがして”という曲はARBとそのファン達には特別な意味を持つ曲なのだ。ARBというバンドはもともと“和製ベイ・シティ・ローラーズ”を目標に、ある音楽事務所主導でローティーンの女の子向けアイドル・バンドとして結成された。時は70年代末、パンク・ニューウェーヴの嵐が音楽シーンを席巻する中で、硬派なロックを嗜好するメンバーとアイドル路線を堅持する音楽事務所が対立。アイドルとしての安定した収入を捨て、メンバーは独立した。その独立を象徴する決意表明の曲として“魂こがして”は生まれたのである。誠さんは、その歌詞をブログに引用し、自身のやるせない感情を吐露していた。前述のエピソードはARBファンならば全員知っている話である。わざわざそれを引用し、悩んでいたということは、あの時点で“独立”か“謹慎”か、を考えていたということなのだろうか?まあ、ARBが独立して自身の音楽性を追及する選択をしたのは、メンバーが全員20代前半で怖いもの知らずであったということもある。単純に誠さんと同じ境遇、というわけではない。でも、解ける可能性があまりない謹慎で収入を絶たれるのなら、少しでも可能性のある独立自営の途というのもあり得る話である。

そして、もし誠さんと竹内さんのコンビが活動再開したとして、別に“サイキック”あるいは“濃い口トーク”を掲げて復活する必然性は無いと思う。北野誠×竹内義和というプロデュース・チームとして活動することもできるのではないだろうか。サイキック青年団とは結局、誠さん・竹内さんが芸能を中心に政治・経済・オカルト・文学・・・その他、ありとあらゆるモノゴトにおいて感じた“オモシロイコト”を徹底的に語りつくす番組であった。その多岐にわたる批評対象から、それぞれ「これは!」と誠さん・竹内さんが思った対象をピックアップし、作品・商品としてプロデュースするといった具合である。まあ、TV番組だとかは規模や立場的に無理だとしても、舞台公演、お笑い芸人、事情が許せばラジオ番組など各種エンタメ、或いは、社会評論からタレントものまで書籍全般は既知のノウハウで対応可能だろう。場合によっては広告宣伝や店舗展開のプランニングなんかもできそうだ。まあ、言ってしまえば既に竹内さんが行っている活動とそう大差は無い。しかし、竹内さんソロだとどうしても活動範囲がサブカルチャー領域になってしまう。それを誠さんの顔でメインカルチャーのほうにも展開していけるのではないか。そして、それと同時に、“北野誠×竹内義和”というブランディングにより裏方として名前が出ないような仕事も表に出せるのではないだろうか。例えば、誠さん・竹内さんがインタビュー&構成を実施したタレント本を想像してほしい。そこら辺のゴーストライターがまとめたタレント本なんかよりもずっとリアリティのある本になりそうな気はしないか?音楽業界での話になるが、Rockin' Onの渋谷陽一氏のインタビューなどは半ばブランド化された状態だ。インタビュイーへの興味関心有無にかかわらず、渋谷氏自らインタビュアーを務めた記事ならば読むという人は多いと思う。こんな具合に、“北野誠×竹内義和”をレーベル化して展開することができれば、これまで埋もれていた様々な才能が発掘されるのではないかと思うのだが・・・どうだろう?

最後に、サイキック青年団を含め、関西メディアの対応状況について言及したい。正直、もっと声を上げてしかるべき問題なのではないかと思う。サイキック青年団がスタートしたのは1988年。やはり、21年間も番組を続けていると、様々な方面から“マンネリ”なんてヤカラが入っていたのは事実である。まあ、これはそんなもんで割り切ってしまえばよい話だ。むしろ、私自身は番組最終回を次なる活動へのファースト・ステップだと思っていた。番組内で誠さん・竹内さんはコンビを続けていくことを明言していたし、与太話レベルではあるが次回番組構想にも言及していた。私はそれを字面通りに受け取ったし、期待していた。ところが、三月末最終回だった予定を突如2週間前倒しして番組が打ち切られた。これ自体に関しては、誠さん・竹内さん共に納得の上での措置であったわけだが・・・そして4月、誠さんの無期限謹慎が発表された。事実上の社会的抹殺である。次なるステップは幻と消えたも同然である。番組終了は必然的であったかもしれないが、ここまでの問題に発展した以上、コトを構えるのもあって良い選択肢なのではないか?竹内さんは関東芸能界とのしがらみから自由な存在なのだから、作家として自身の活動に対する正当性をきちんと主張しても良いのではないだろうか?論点を関西ローカルのTV・ラジオ番組に広げてみよう。「地域に密着した番組作り」とは、「××村で○○という催しが行われています」なんていう情報をローカルエリアに伝えることではない。地盤となる地方のリソースで番組を成立させ、独立独歩で営業放送を行い、地域の文化を発展させることだと言っても過言ではないはず。しかるに現在、「関東芸能界のわからないところで勝手なことを言っている」なんていう本質を全く捉えていない言いがかりで自主規制の狙い撃ちにあいそうな雰囲気である。たかじんさん、上沼さん、ざこばさん・・・ドメスティックな立場からもっと声を上げても良いのではないか?「東京のテレビには反骨精神が無い!権力に全く立ち向かう気が無い!自身の顔をさらして自分の言いたい事を言う。これの何が悪いんじゃ!?」なんて具合に。彼らは倫理の大義名分を持ち出すだろう。それならば、関西メディアは大同団結して文化・地域性を掲げてきちんと反駁しないと、関西発のカルチャーが潰されかねない。東京一極集中にターボがかかり、関西を基盤とする芸能活動がより衰退するであろう。

長文となってしまったが、私の言いたかったことは結局これだけである。「誠さんの“不適切発言”はニュアンスを捻じ曲げて報道されている」「ラジオ媒体にこだわらなくてもいいから、“北野誠×竹内義和”の黄金コンビ復活を望む」「関西のメディアは圧力に負けず戦うべし」。いろいろ思うことが多すぎて、情熱だけが突っ走った文章になったかもしれない。でもそれは、私の想いと世間一般の摩擦を具体化した結果である。一連の騒動を通じて、あるサイキッカーサイキック青年団のヘビー・リスナー通称)がどんな事を想ったかが伝われば幸いである。