●“夕凪の街 桜の国こうの史代 ASIN:4575297445

・・・で、「読書」といいつつも、いわゆるひとつの活字本ではなく漫画である。
しかし、タダの漫画ではない。間違いなく日本の漫画史に残る一作である。

大雑把にかいつまんで概要を説明すると、1955年の広島が舞台の第一部“夕凪の街”と1987年/2004年の東京が舞台の第二部“桜の国”の二部構成で、広島原爆のある被爆者とその子孫の日常体験を綴った100ページほどの中篇作品。女性らしい柔らかなタッチの画で、静かに、淡々と描かれる物語。それこそ、何も考えずに読めばものの10分で読めてしまいそうな内容。・・・だけれども、自分は初めて読んだとき、たったの100ページを読むのに1時間半もかかってしまった。
なぜって、その画やストーリーは見た目とはは裏腹に、異常な位濃厚に情報が詰まっているのである。それこそ、意味のないコマ・文章は100ページ中1コマも無い。主人公の表情を描いただけ、セリフもないたった1コマにすら、丁寧に読み解くとストーリーとは直接的には関係の無い意味を持っているたりする。当然、説明的なセリフなど全く無い。まさに、作者の表現したい想い全てが、画を媒介にしてイマジネーションのみで訴えかけてきて、きちんと伝わってくるのである。

まんがとはかくあるべし。心からそう思う。
小生、本作を読んでる間、涙腺の刺激に耐えられなかったことをここに告白します。

そんな素晴らしい作品に、漫画に関しては批評眼なんか持ち合わせていない自分がアレコレ言うなんて野暮天の極みだとは思うのだが、本作を読みながら感じたのは、北野武氏の映画を観ているような感覚である。ていうか、作者は絶対に北野映画に相当影響を受けているはず。前々段で「イマジネーション云々」と書いたけれども、そのイマジネーションで訴えかける手法・イマジネーションを増幅するための手段が北野映画と同様なのである。

ひとつは反復表現の多用。第一部の主人公が会社へ出勤する。その途中、通り道にある原爆ドームを見上げ、ある決意をする。その49年後、ひょんな事から広島へやってきた第二部の主人公(第一部主人公の姪)が原爆ドームの脇を通り過ぎる。原爆ドームを見上げ、“ひょんな事”の意味に気づく。この2つの場面は同じ構図・コマ割で描かれており、よく似ているけど微妙に違っている主人公二人の顔が対比され、時空を超えて血縁関係が強く印象付けられる・・・といった具合。
もうひとつは、はっきりとは示さない、むしろ、ほとんど意識させないように関連性を示す手法。例えば、第一部で数コマだけ登場した人物が、第二部に1コマだけ登場したりする。そんなの気づかないよ、という感じなのだが、これがまた確かにきちんとわかるのである。いや、「わかる」というよりむしろ、「感じ取ることができる」というほうがしっくりくるかもしれない。

こんな具合に、きちんと作品が構造化された形で描かれているから、狂言回しのキャラクターや説明的なセリフなどなくても、無理なく物語が進行するし、読み手は画に込められた情報を論理ではなく五感で自然にすんなり受け入れることができるのである。単純なことだけれども、これが実践できている漫画っていまどれくらいあるだろうか?読み手が論理による解釈で物語を補完するか、画の勢いで無理矢理押し切っているのが大半ではないだろうか。

素晴らしいのは手法だけではない。テーマ設定も見事としか言いようがない。本作に掲げられた2本柱のテーマは“被爆者のPTSD”“被爆者二世・三世への差別”である。

これまでの漫画を含めた文学に無かったわけではないけど、PTSDなんてテーマは00年代であるからこそ書き得た主題であるし、被爆者差別の問題であれば井伏鱒二の“黒い雨”という名作の小説があるが、あれはあくまで被爆した当事者の世代の話であり、80年代生まれの自分にとっては、申し訳ないが他人事の域を出ない。(それが証拠に、“黒い雨”は高校生の頃に読んだ記憶はあるのだが、話のスジが全く思い出せない・・・)その点、本作第二部の主人公は自分とほぼ同世代(若干上)。すなわち、“被爆者二世・三世への差別”は自分自身も当事者になり得る可能性がある、コンテンポラリーな主題なのだ。

少々話しは脱線するが、自分は大阪の生まれである。大阪の公立小学校はかなり道徳教育に力を入れている。自分の通っていた小学校の場合、教科書があり、副読本があり、各種レジュメがあり・・・さらにけっこうな頻度で講堂に学年全体を集めて映画を観たりする。今考えると、主要教科の授業が遅れていてもきちんと時間を確保していたあたり相当な力の入れようであった。で、その“道徳の時間”に何をやるかというと、早い話が“平和教育”と“同和教育”である。「平和教育」と言うと聞こえはいいが、その実体はけっこうイヤなもので、小学1,2年生あたりの児童に「今日は体育館でアニメを観ましょう!」とか言って“はだしのゲン”を観せたりするのだ。「わー!アニメだ」と大騒ぎしていた児童達は「み、水をくれ、ギギギ・・・」とか出てきて、泣き出す奴もいたりして、そっちのほうがよっぽどPTSDだろ!みたいな。片や同和教育のほうはなかなか本格的であった感がある。教育映画で「部落という場所に貧乏な人がいる、いじめちゃいけないらしい」なんていうイメージを観せるだけでなく、きちんと江戸時代の身分制が起源となっていること、現在は「身分」はなく平等である・・・といった具合に、人権の概念までそれなりに説明していた記憶がある。

しかし、どちらの教育も何一つ解決はしていないのは間違いない。小学生の理解力という制限は当然あるが、強烈なイメージで核兵器のの悲惨さを訴えても、人はなぜ争うのかという背景を考えなければ戦争の本質なんて見えてこないし、現在は存在しないはずの身分制度がなぜ残ってしまっているのか、そもそも同和問題に限らず“差別”というのは陰湿に構造化された社会制度の問題である以前にパーソナルな感情の問題であることを認識させなければならない。

前フリが長くなってしまったが、本作はこのあたりのことをきちんと描いているから凄い。第一部、原爆症で死を迎える主人公に作者が独白させたのは(「原爆を落とした人」に対し)「嬉しい?」という問いかけである。はっきり言って、このセリフ一言で過去の非核反戦文学を凌駕したと言ってもいい。
例えば“死にたくない”“戦争はイケナイ”なんて類の当たり前の感情なら誰にだって描ける。これまでの非核反戦文学の限界点はまさにこの点で、“主人公・女性・子供の死”→“かわいそう”→“戦争はイケナイ”→“感動”なんていう完全にパターン化された結末に収束してしまう。別に、それはそれで悪くないのだが、被害者(主人公)への一方的な感情移入を強要するあまり、時の為政者や米兵、その他“戦争”にかかわる膨大な人間それぞれの視点が完全に欠落するのである。
前述の“はだしのゲン”なんかまさにこの通りで、核兵器の悲惨さはイヤっていうほど、わかりましたもうカンベンしてつかあさい、ってなほど叩き込まれるが、「では、どうすれば核兵器を廃絶することができるだろう?」と問いかけたならば、被害者の視点でしかモノ言ってないだけに思考停止の沈黙状態で、何一つ有効性を持っていないのである。
対する本作も基本は非核反戦文学のパターンを踏襲してはいる。しかし、その上できちんと(皮肉的なニュアンスを含みつつ)「問いかけ」をしている。
「嬉しい?」「十年たったけど原爆を落とした人はわたしを見て「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?」と主人公。“原爆を落とした人”・・・一兵士、決定を下したおエラい方々、直接関係はない一市民、その他諸々の立場からすればどうなんだろうか。それなりに罪悪感を感じているのだろうか?まさか“原爆投下が日本無条件降伏を決定的にし、結果、より多くの被害が出ずに済んだ”なんていう手前味噌もエエとこな詭弁を本気で信じてたりするのだろうか?ひょっとして我々のような有色人種がどれだけ被害を受けようと、1940年代の欧米の感覚では問題なかったのか?
・・・こんな具合に、「問いかけ」によって被害者だけでなく、加害者側の立場もイマジネイションさせることにより、読み手は従来とは異なった俯瞰的な視点から“戦争”という事象についてもの想うことができるのである。

そして、第二部“桜の国”では舞台を現代に移し、“被爆者二世・三世への差別”がテーマとなる。前述したように、80年代前半生まれ、大阪育ちの人間は“差別”というのは構造化された社会制度の問題として認識しているのではないかと思うのだが、本作は否応なしに“差別”はパーソナルな感情の問題であることを読み手に突きつける。その方法はいたってシンプルで、差別する側を悪く描かず、自然で当たり前の感情の延長として差別感情を示すのである。被差別側である主人公の弟(被爆者二世)も、それを自然で当たり前であるからこそ、差別されることを受け入れる・・・といった具合に描かれている。
これは怖い。きれいで美しいストーリー、ハッピーエンドで終わる物語であるが、めちゃめちゃ怖い。読後、“じゃあ、お前はどうなんだ?”と自分自身に問いかけた時、何も言えないのである。自分の身の回りには実際に被爆した人はもちろん、被爆者二世・三世すらいないし、ましてや本作に登場する差別者のように“年頃の娘の親”なんて立場でもないから、ヘタなことは言えないのだが、“自然で当たり前の感情”だけに、読み手自身が差別者になり得ることを本作は示唆している。
少々ネタバレを承知で説明すると、本作では“被爆者二世・三世への差別”を“結婚”というライフイベントで露呈させている。被爆者二世と結婚を視野に入れた交際をしている娘の親が、原爆症でいつ死んでもおかしくないと決め付けて被爆者二世との交際を止めさせようとする・・・という、よくあるパターンである。
「家」という、ぬえのような重苦しい制度からくる部分もあるとは思うが、親の立場からすれば、いつ、いきなり死ぬかわからない時限爆弾のような男と結ばれる不安、潜在的差別意識というのは十分に理解できるし、単純に「差別=悪」という見方がここでは通用しないのだ。
被爆者二世・三世への差別”というのがピンと来ないようであれば、“癌の家系”なんていうのでもいい。自然な感情として「この人は遅かれ早かれ癌で死ぬ」と決め付けてしまったりしていないだろうか?少なくとも、生命保険料は癌の家系かそうでないかでずいぶん変化する。“ハゲの家系”なんてどうだろう。例えばもし自分が年頃の女性で、超イケメン・キムタク似のダーリンと結婚するとして、結婚式当日、初めて会った新郎の親戚一同全員が日照つるピカや黄昏バーコードであったならば、披露宴の最中も意識はダーリンの数十年後の絶望的イメージでいっぱいいっぱいではないか。
ようは、こういう普通の感覚でも、つきつめて考えると実は差別意識であり、被差別者に何らかの不利益がもたらされる可能性がある・・・ということである。本作はこんな具合に読み手にひっそりと鋭いナイフを突きつけるのである。

こんな具合に、長々と感想というか解説を書いてみたわけだが、一人の読み手として疑問に思うこともある。
前述のように、自分の身の回りには実際に被爆した人はもちろん、被爆者二世・三世すらいないから、彼らが本作を読んだとき、どのような感想を持つのだろうか。本当の意味で当事者である人々はどんな箇所に共感したのだろう?どんなところにズレを感じたのだろう?
当然、作者のこうの史代女史は本作を執筆するにあたり、きちんと取材しているだろう。当事者意識の大筋はきちんと掴んでいるだろうし、何がどうなろうと本作が漫画史に残る名作であるのは間違いない。
ただ、本作をめぐる環境(あくまで、作品本体とは切り離された部分)で感じることがある。、当事者による評が見えてこないのだ。本作のタイトルを検索キーにしてGoogleにかけると、215,000件もの結果が返ってくる。通販サイトやニュース記事の結果も含まれているからその全てが書評というわけではないのだが、不思議と当事者による感想というのが見当たらなかったのだ。まあ、実際に被爆した世代がインターネットなんてメディアに書評を寄せるというのは難しいだろうが、被爆者二世・三世がどこまで当事者意識を持って本作を読むことができたか、自身の経験とからめたカタチで評論すると、非常に面白い記事になると思うのだけれど・・・。


2006年、北朝鮮の核ミサイル実験を機に、かなり現実味を帯びて核武装が議論されるようになった。小林よしのり氏が昨年最後の“ゴー宣・暫”で「唯一の被爆国であるからこそ、慎重な取り扱いができる。自衛のために核武装する資格がある。」と主張したのは象徴的だった。
確かに、日本国憲法第9条も日米安保テポドンの前では屁のつっぱりにもならないだろう。でも、核武装に対抗して核武装したところで、それは抑止力となりうるのだろうか?“抑止”という観点から言えば、“宇宙戦艦ヤマト”の“コスモクリーナー”のような、核兵器の効力を無力化するようなアイテムこそが本来の意味で“抑止力”となりうるはずである。もしくは、金正日の個人的感情に訴える方法。肉親を人質にしてしまう。数年前、金正男がのこのこ偽造旅券で来日した時、そのまま人質に取っていればそれは“抑止力”となったはずだ。
単純に核兵器の有無や物量で競ったところで、互いの核兵器使用を牽制できるものではないはず。もし、日本が核武装したところで、先に東京にテポドンを打ち込んで首相以下のミサイルを発射する決定権を持った人間を殺してしまえば、誰一人責任を取らないがため報復攻撃を決定することができないのがオチである。
・・・まあ、こんなことを書いたところで、何がどうなるわけでもない。俺みたいな人間にできるのはRock'n'Rollの神様に祈るだけ。
「2007年、国家・宗教の対立せいで罪のない人々が傷つけられることのないように・・・」。



完全な余談。このエントリーを書くためにネットで検索をかけたのだが、本作が映画化されるそうだ。主演は田中麗奈麻生久美子とのこと。いや、なんちゅうか、その、“ザッツ好みのタイプ!”である(笑)中野裕之氏による短編映画集“Short Films”の中の一篇、麻生久美子が主演した“Slow is Beautiful”のファースト・シーン、髪をセットしてはクシャクシャにしてまたセットして・・・という動作をする彼女の姿・・・大変ドキドキさせていただきました。(笑)そんなわけで、映画版も大変楽しみにしています。(よくあるコミック原作ありき、話題性だけのツマラナイ映像にならないことを祈りつつ・・・)